もしかして私ってADHD!?
私は大人になって社会人になってから自分がADHDであると知りました。
それまでADHD自体知りませんでした。
私がADHDと診断されるまでをお伝えします。
【疑ったきっかけ】
短大卒業後最初に就いた仕事がうまくいかず、鬱病が悪化して休職していた頃、よくネットサーフィンをしていました。
その中で『仕事がうまくいかないのはADHDのせいかも』という記事が目に止まりました。
その記事を読んでみると、私に当てはまる特徴がいくつも述べられていました。
もしかして私ってADHDなのかもとその時思いました。
【ADHDとは】
注意欠如多動性障害と言って『不注意』『多動性・衝動性』の2つの大きな特性があります。
『不注意』が目立つ『不注意優勢型』、『多動性・衝動性』が目立つ『多動・衝動性優勢型』、どちらも同じぐらい目立つ『混合型』の3つのタイプに分けられます。
一般的に女性は『不注意優勢型』が多く周りから気づかれにくく、男性は『多動・衝動性優勢型』が多く目立った行動により周りに気づかれやすいと言われています。
昔は子ども特有のものと考えられていたが、大人になっても症状が残る人がいることがわかりました。
ADHD全体の1/3が症状が子どもの時のみで1/3が大人になると症状が目立たなくなり1/3が大人になっても困難を感じると言われています。
【ADHDと診断される】
ADHDを疑った私は病院に相談しました。
当時通っていた病院はADHDは専門外だったため、別の病院に行くことになりました。
そこで疑った経緯や子どもの頃の話をして、ADHDの検査を受けました。
そして、ADHDと診断されました。
【ADHDとわかって思ったこと】
私はADHDとわかってもショックを受けることはありませんでした。
むしろ妙に納得しました。
子どもの頃からずっと感じていた違和感の正体はこれだったのかと思いました。
最初やってみましたがあまり効果は感じられませんでした。
私は薬物療法をやめ、ADHDについてもっと知ってADHDともっと上手く付き合っていくことにしました。
最初はうまくいきませんでしたが、色々調べる内にだいぶわかってきました。
今はだいぶ上手く付き合えていると思います。
もちろん周りの手助けもかなり大きいです。
(ADHDについてはあと2つ記事を書く予定です)
鬱病は再発する!
一度断薬した後、約2年は病院に通うこともなく過ごせていました。
【再発のきっかけ】
育休明け今までと同じようにフルタイムで復帰したものの産後体調が変化したこともあり、しんどかったです。
時が経てば慣れていくと思っていましたが、いつまでも体調を崩してばかりいました。
そして、仕事が忙しくなってついに心までおかしくなってしまいました。
自分の心がおかしくなっていることに気付いてはいましたが、鬱病だとは認めたくありませんでした。
何故なら一度乗り越えていたからです。
また鬱病になったとは思いたくありませんでした。
【ついに限界がきた】
しかし、無理をして頑張っていた結果、突然職場で何とも言えない体調不良に襲われました。
頭痛、めまい、吐き気、動悸、息切れ等の様々な症状に襲われ、とてもこれ以上仕事が続けられる状態ではなく、早退しました。
しかし、早退して家でしばらく安静にしていると、症状は治りました。
症状は精神的なものだったと思いました。
次の日も仕事には行きました。
しかし、しばらくすると前日以上の酷い症状に襲われ、また早退しました。
流石にこのままではいけないと思い、病院に行きました。
【休職したものの…】
病院に行くとやはり鬱病で休職を勧められました。
私はとりあえず1ヶ月休職することにしました。
上司に伝えようと上司の都合をメールで聞くと、今から電話で聞くと言われ、とても緊張しましたが何とか伝えました。
上司は快く休職を認めてくれました。
休職して酷い症状に襲われることはなくなりましたが、私の心が晴れることはありませんでした。
仕事に行けないことで強い罪悪感に襲われました。
旦那にも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
休職中に今後どうするか考えました。
コロナ禍で別の仕事に就くのが難しいこと、今のところは育休がもらえるので2人目産む時に助かることから復職する決断をしました。
【1回目と2回目の違い】
1回目のかなりひどい鬱病を乗り越えただけあって、鬱病への向き合い方は何となくわかっていました。
そのため、2回目は1回目のように酷く落ち込むことはありません。
しかし、1回目の時と違い考え方等を変えるだけでなく環境を変える必要があります。
そして、その答えはもう出ています。
それは在宅で働くことです。
専業主婦では別のストレスが生まれるし、他の会社で働いてもまた同じことになるかもしれません。
在宅で働けばそれらのストレスから解放されます。
しかし、在宅で働くのは簡単ではありません。
今、副業を頑張っているところです。
これが軌道に乗ったら仕事を辞めようと思います。
長く険しい道になるかもしれませんが、絶対に諦めません。
理想の未来を手に入れ、再び鬱病も乗り越えてみせます。
鬱病は乗り越えられる!
長く鬱病に苦しんで今も鬱病の治療をしている私ですが、一度は断薬に成功したことがあります。
鬱病は薬を飲み続けていても治りません。
問題に対して自分なりの答えを出し、考え方を改めたり環境を変えたりしないといけません。
そのことについてお伝えしたいと思います。
【前向きになれたきっかけ】
私が変わることができたのは旦那との出会いが大きかったです。
鬱病、ADHD、弟の病気等色々抱えていた私を旦那は受け入れてくれました。
さらに弟のことを話した時、『家族に障がいや病気がある人がいたら、自分の子どもにも会わせて受け入れられるようにしたい』と言ってくれました。
また旦那は愛をたくさん伝えてくれました。
愛されていると実感できたことで自分を肯定することができ、必要以上に自分を嫌ったり責めたりすることが減っていきました。
【新しい命】
私をさらに変えたのは息子でした。
新しい命が宿ることで不安になる人もいると思いますが、私は『この子を絶対に守る!』という強い気持ちが生まれました。
前向きになれて鬱病の症状がどんどん良くなっていきました。
医師に相談して少しずつ薬を減らしていき、出産するまでに断薬することができました!
そして、出産の時新しい命が誕生することにとても感動しました。
自分が自殺を考えたことがあるのがとても愚かなことだったと思いました。
【初めての育児】
初めての育児は思っていた以上に大変でした。
全然泣き止んでくれなかったり、全然眠れなかったりで疲れ果てて心が折れることもありました。
産後鬱になりかけていると医師から指摘を受けたこともありました。
しかし、旦那が寄り添い話を聞いてくれ、何とか乗り切ることができました!
【乗り越えられた理由】
ずっと弟が私の支えであり、守るべき存在でした。
そんな弟が植物状態になってパニックになってしまいました。
しかし、旦那が受け入れて愛して支えてくれたことでたくさんの人に愛され支えられていたことに気付けました。
私は私の人生をちゃんと歩んでいかなければならないと思いました。
また、息子という守る存在ができたことでもう私だけの体、人生ではない、この子のために生き続けなければならないと思うようになりました。
息子が誕生した時に命の尊さを実感して、弟が生きているだけでも素晴らしいことだと思えたことも大きかったと思います。
恋愛、結婚、出産で苦しい思いをする人もいると思いますが、私にとっては良い方向へ変わるきっかけになりました。
(鬱病の話はあと1記事書きます)
鬱病がこんなに辛いなんて知らなかった!
私は鬱病が自分に関係ないなんて思っていませんでした。
私は鬱病になりやすいタイプであるという自覚もありました。
しかし、鬱病がこんなに辛いものだとは知りませんでした。
【鬱病の始まり】
最初鬱病になったきっかけは弟の病気でした。(弟の病気については『生きているだけでいい!-てんかん-』をお読み下さい)
当時は弟が私の心の支えでした。
心の支えを失ってどう生きていけばいいのかわからなくなってしまったのです。
体が重くなり、やる気が起こらなくなり、アルバイトに行くのが憂鬱で仕方ありませんでした。
元々精神的なことで頭痛や胃痛が起きるタイプだったのもあり、この症状が精神的なものであることはわかりました。
精神系の病院には行ったことがなかったので探しました。
行くことに躊躇はありませんでした。
何とか助けてほしいという思いでした。
病院に行くと鬱病と診断され、薬をもらいました。
【日常生活が送れない】
薬を飲むものの弟の病気が良くならないこともあり、あまり症状は良くなりませんでした。
アルバイトも集中できずミスをするようになり、耐えきれず辞めました。
すると、今まで無理矢理行っていたことも行えなくなりました。
お風呂に入ることもまともにできませんでした。
日常生活が送れない自分が嫌になりました。
気分転換しようにも今まで好きだったことを楽しいと思わなくなっていました。
どうしたらいいのかわからず、家に引きこもりただボーッと過ごしている時がしばらくありました。
【一旦落ち着き始めるが…】
薬の効果が現れ、何とか就活で決まっていた仕事を無事にスタートすることができました。
しばらくは症状が落ち着いており、仕事も頑張っていました。
しかし、仕事が上手くいかなくなり、鬱病の症状が酷くなり、休職しました。
休職後も症状は良くならず、他にも体調的に負担があったため、結局退職しました。
しばらく無職の期間があり、また家に引きこもりました。
【自殺願望】
ずっと思うような生活が送れないと自分のことがどんどん嫌になり、たくさん自分を責めました。
すると、もう生きているのが辛い、死んでしまいたいという気持ちが芽生えてきました。
ひたすら自殺の方法を調べ続ける時期がありました。
ギリギリ自殺の実行には至らなかったものの本当に苦しかったです。
常に心の中で助けを求めていました。
【ゆっくり再スタート】
新しい仕事はパートを選び、最初は1日4時間で働き始めました。
働く時間が短いのは気が楽でした。
短い時間でも働くと達成感がありました。
少しずつ働く時間を増やしていき、最終的にはフルタイムで働けるようになりました!
(鬱病の話はあと2記事書きます)
生きているだけでいい!
あなたは家族が突然命の危機に陥ることを想像したことがありますか?
普段はなかなか考えないでしょう。
私もそうでした。
しかし、私の弟が命の危機に陥ったのです!
【母もてんかんだった】
母もてんかん持ちで子どもの頃は思うように運動ができませんでした。
薬物療法と食事療法で大人までに症状を抑えることに成功しました。
私は母が発作を起こしているところを一度も見たことがありません。
【弟のてんかんの始まり】
最初は小学校のプールの授業中に意識を失いました。
その時、色々検査が行われ、てんかんであることがわかりました。
しばらくプールは見学になりました。
医師の許可が下りた後も学校側の要請で母がプールサイドで見守ることになりました。
その後も発作を度々起こし、道端で倒れて前歯を折ったこともありました。
【薬物療法】
発作が度々起きるようになり、薬物療法が始まりました。
私はこれで母のように症状がおさまっていくと信じていました。
弟は薬を欠かさずきちんと飲んでいました。
【命の危機】
その日は突然やってきました。
弟が大学1年生の10月3連休の前日、私はアルバイトをしていました。
アルバイトの休憩中、母からメールが来ていることに気付きました。
メールを見ると、『突然倒れて、心肺停止』の文字が目に飛び込んできました。
最初は祖母のことかと思いました。
しっかり内容を確認すると、弟のこととわかり、パニックになりました。
とりあえず母に電話しました。
『大学で突然倒れ、心肺停止の状態になった。大学側で救急車の要請やAEDの対応をしてもらえ蘇生したが、予断を許さない状態』頭が真っ白になりました。
『家族の中で1番若くて元気な弟が1番最初に命の危機?信じられない。何かの間違いだ。』そんな思いが頭をよぎりました。
バイト先に事情を話し、すぐ病院へ向かいました。
そこにはたくさんの管に繋がれた弟がいました。
3連休の間に命の危機は脱し、容態は安定しました。
【医師から衝撃の事実を告げられる】
その後、弟は植物状態のまま良くなりませんでした。
私は日に日に病んでいき、鬱病になりました。(鬱病については別記事に記載します)
そのような中、医師から弟はずっと植物状態のままで今後良くなることはないと告げられました。
私は再び頭の中が真っ白になりました。
【諦めたくない!】
しばらく落ち込んでいた私でしたが、次第に諦めたくないという気持ちが芽生えてきました。
医師は無理と言っていたが本当に方法はないのか自分で必死に調べました。
そして、県内で脳の治療に特化した病院を見つけました。
早速病院へ行きました。
全員が良くなる訳ではない、実費負担になるので、検査をして可能性がある場合のみ治療を行うと説明を受けました。
検査の結果、可能性があると判断され、治療が始まりました。
今のところ表情が現れるようになった以後大きな変化はありませんが、今も治療は続いています。
【私の受け止め方】
最初は良くならないと意味がないと思っていて、良くならないことが辛かったです。
しかし、自分自身が出産を経験して改めて命の尊さを実感しました。
そして、死んでいたかもしれなかったのに今でも生きている、それだけで十分素晴らしいことだと思うことができるようになりました。
もちろん良くなっていくことを諦めた訳ではありません。
これからも弟の治療は続けていきたいと思います。
おばあちゃん、ごめんね、そしてありがとう
認知症は他人事でしょうか?
いいえ、認知症は身近にあります。
あなた自身もあなたの家族も認知症になるかもしれません。
認知症になったら、具体的にどうなるの?
認知症になった祖母を例としてお伝えします。
【元々の祖母】
祖母とは一緒に暮らしていました。
私の面倒を見てくれ、私はおばあちゃんっ子でした。
活発な人で自分のことは自分でし、家のことも手伝い、喫茶店や買い物、温泉等に出掛けていました。
【認知症のきっかけ】
私が高校生の時、祖母が自宅の階段から落ち、腰を骨折して歩けなくなりました。
よく出掛けていた祖母が出掛けられなくなり、ストレスが溜まったのでしょう…
物忘れが酷くなり、家族に感情的に怒るようになりました。
私は祖母を病院に連れて行った方がいいのではないかと母に言いましたが、母は断りました。
何故だかわかりますか?
母は自分の母が認知症だと簡単には認められなかったのです。
【進んでいく認知症】
腰が治った後も祖母の認知症の症状は良くなるどころか悪くなっていきました。
同じ物を何度も買うようになりました。
徘徊して行方不明になり、警察に届け出たこともありました。
見た目も一気に老け込み、体の機能も衰えていきました。
急激に変化した祖母を私は受け入れられず、母が大変な思いをしていることを知りながら、家にいることが少なくなりました。
母は疲れから朝起きられなくなり、当時していた新聞配達の仕事が思うようにできなくなりました。
私は母を手伝わなかったことをとても後悔しました。
【私達の決断】
家族で話し合い、祖母を施設に入れることにしました。
薄情でしょうか?
いいえ、そうではありません。
自分達が生活していくためには施設に入れるのがベストな選択肢だっただけです。
施設に入れても祖母は大切な家族です!
【施設に入った後】
症状は悪くなる一方で喋らなくなっていき、表情が乏しくなっていきました。
私の結婚式が間近に迫った頃、祖母が発作を起こし、入院しました。
祖母にも車椅子で参列してもらう予定でしたが、急遽欠席となりました。
その後も祖母の症状が良くなることはなく、車椅子にも乗れなくなり、寝たきりになりました。
そして、2020年4月27日祖母は天国へと旅立ちました。
【その後考えたこと】
祖母の認知症が急激に進んだのは、脳に腫瘍があったからでした。
祖母は病院に行っていたようですが、私達には何も言っていませんでした。
知らなかったとはいえ、やはり早くから治療していれば、もっと違う道があったのではないかと思います。
また、認知症のことをもっと勉強しておけばよかったと思いました。
認知症になった側の目線で考えることができませんでした。
変わっていくことを1番受け入れられなかったのは祖母自身かもしれません。
【祖母へ伝えたいこと】
おばあちゃんと過ごした日々今でも覚えているよ。
おばあちゃんの気持ちを考えきれずにちゃんとした対応できなくて、ごめんね。
それでも私が会いに行くと笑ってくれて、嬉しかった。
おばあちゃん、本当にありがとう。
好きで無職になった訳じゃない!
皆さんは無職と聞いて、どんなイメージを抱きますか?
だらしない、情けない等悪い印象ではありませんか?
私も昔はそうでした…
たしかに世の中には自ら望んで働いていない人や大した努力をしていなかったり高望みして仕事に就けない人もいるでしょう。
しかし、突然仕事をリストラされることもあります。
病気になって思うように働けなくなることもあります。
今回は私の父と私の無職、再就職の経験とそれに対する私の考え方を書きます。
【父の無職】
私が中学生の時、私の父は会社をリストラされ無職になりました…
警備のアルバイトをしながら、必死で新しい職を探していました。
しかし、若くもなく、特に資格もない父の仕事探しはなかなかうまくいきませんでした…
平日の昼間に家にいることもありました。
【ギスギスする家の中】
私達は母方の祖母と暮らしており、元々仲の悪かった祖母と父はさらに仲が悪くなりました…
当時思春期真っ只中だった私も父の味方をすることなく、反抗していました。
家の中はギスギスし、私は家に帰りたくないと思うようになりました。
私が受験生になった時、母から絶対公立に行ってほしいと言われました。
私は確実に公立に行くために受ける高校のレベルを落としました。
それが納得できなくて、ますます父のことが嫌いになりました。
【父の再就職】
その後、父は契約社員として新しい仕事に就きました。
正社員ではなかったため、祖母は色々言っていました。
しかし、数年後見事正社員になりました!
【私の無職】
私は短大卒業後、正社員として働き始めましたが、仕事がうまくいかず、元々患っていた鬱病が悪化して休職しました。
その中でADHDが発覚しました。
最終的には退職し、無職になりました。
【あの時の父の気持ち】
そうなって初めてあの時の父の辛さがわかったような気がしました。
働けないことへの罪悪感、周囲からの冷たい視線や言葉に押しつぶされそうになりました…
あの時、父の味方になれなかったことを後悔しました…
【私の再就職と父への尊敬】
私は最初再び正社員として働こうと職を探していましたが、若くても最初の会社を1年未満で辞め、特に資格もない私の再就職も厳しいものでした…
再就職がこんなに大変で難しいものであることもこの時までわかっていませんでした…
あの時は父のことを嫌っていたけど、新しい仕事に就き、そこで正社員になれるよう努力して、見事正社員になった父を尊敬するようになりました!
その後、鬱病が悪化していたこともあり、私は考え方を変え、障がい者雇用で今の会社に入りました。
今はこの仕事に納得していませんが、あの時点ではベストな選択だったと思います。
【まとめ】
同じ経験をした人にしかわからない辛さがあります。
同じ経験をしていない人にわかってもらうことは難しいかもしれません。
しかし、わからないからといって、それを批判するような人にはなりたくないと思います!
この記事を読んでくださった方々もそう思ってもらえたら嬉しいです。